+まさかの音+

 空気を通すためか、扉が少し開いている。中を覗いてみると、尋ね人は在室のようだ。

「陸遜、兄様がお呼びなんだけど……って、ねえ陸遜?」

 こんこん、と扉を叩いてから声をかけたにも関わらず、陸遜は文机に向かったままでいる。
 何も耳に入らぬといった集中力はさすがに孫呉の軍師だと感心してしまうが、兄に頼まれた用事は用事。
 少し逡巡した後、尚香は部屋に踏み込んで、文机の側に立った。

「……尚香様。もしかして、先ほどお呼びになりましたか?」
「ええ、声をかけたのに気付いてくれないから、勝手に入ったわよ」
「それは申し訳ありません。書に熱中してしまいました」

 すぐ側までやってきた気配で、漸く侵入者に気付いた陸遜が顔を上げる。
 それに対応しながら、尚香は何気なく机上の竹簡に目をやった。
 
「兵書の類じゃないみたいね。そんなに熱心に、一体何を読んでいたの?」
「ああ、これは浮屠教についてのものですよ。興味深い記述がありましたので」
「浮屠教の?」
「はい。”百八つの鐘”という記述です」
「……百八回も鐘を撞くの?途中で数がわからなくなりそうだわ」
「そうですね、一人だと数を間違えてしまいそうです」

 尚香は”百八つの鐘”と聞いて小首をかしげた。
 兄・孫権に頼まれた用事もすっかり忘れて、陸遜が広げた竹簡を覗き込む。

「正しくは”除夜の鐘”と言うのだそうですが」

 陸遜は竹簡を探り、その記述の部分を指した。

 百八というのは一二ヶ月二四節気と七二候を足した数値であり、また浮屠教でいうところの三十六種類の煩悩が三世分、というところから来るらしい。
 そこから、その一年に作った罪(煩悩)を除き、清らかな心で新年を迎えるために百八回鐘を打つことを、除夜の鐘と呼ぶ。

「――――だそうです。三十六の煩悩が過去・現在・未来の三世分あるから、百八回」

 陸遜も浮屠教については勉強中なのか、説明に少々時間を要した。
 口を挟まずに聞いていた尚香は、説明の終わりを確かめてから質問、と手を上げる。

「三十六の煩悩って何?そんなに多くは思いつかないわ」
「言われてみれば納得すると思いますよ。普通に生活している中で抱く感情が主ですから」
「たとえば、陸遜なら?」
「私ですか?それはまあ色々とありますけど」
「だから、たとえば?」
「…………ええと、綺語、妄語 、増上慢などがすぐ浮かびますね。あとは狂、両舌、妬などでしょうか」
「前半はわからなくもないけど、後半は何かしら」
「狂、両舌、妬ですか?」
「ええ」
「簡単ですよ。心が千々に乱れることでしょう、口は穏やかでも内心は陰険でいることでしょう。それから、最後は嫉妬ですね」

 正面から尚香を見つめて、陸遜は指を折りながら説明を続けた。
 彼の表情はこの上なくにこやかだが、その内容は人間の内面に関するものだけあって、それなりに生々しい。

「そ、そう。じゃあ、陸遜も大つごもりには鐘を鳴らそうとか思っているの?」
「いいえ。面白そうな儀式ではありますが、私の心を清らかにするのは無理でしょうね」
「……清らかじゃないわけ、あなたって」
「ええ、清らかからは程遠い心の持ち主ですよ。先ほどの三つの煩悩には、特に苦しめられていますから」

 そう言われて、尚香は陸遜の言う三つの煩悩とやらを胸中で反芻した。
 心が千々に乱れる、口は穏やかでも内心は陰険でいる、嫉妬する。暗に、誰かに恋していると言っているようにしか聞こえない。
 こんな風にじっと見つめられていると、それが自分だと言われているようにしか聞こえない。
 本当にそう言われているのならば嬉しいが、そう思うのはあまりにも自意識過剰ではないだろうか。
 嬉しいと思う気持ちと否定的な気持ちとが混在し、尚香は何の言葉も発せられなかった。
 
「……尤も、苦しいからと言って、簡単に思い切れるものでもありませんしね。時には相手を逆恨みしたりもします」

 陸遜から柔和な笑みは消え、そのまま真っ直ぐに見つめられた。今の状況では、その眼差しが何よりも雄弁かもしれない。 
 自分に届く視線を受け流さずに、小さく深呼吸をしてから尚香は口を開いた。

「私だって、あなたを恨みたくなることがあるわよ?」
  
 どこまで本気なのかわからない言葉を紡ぎ、散々に自分を翻弄してくれる彼に、愛しさよりも悔しさを向けることがある。
 向こうは向こうで自分を恨み、自分は自分で陸遜のそういった態度を恨むのだ。
 考えれば考えるほどに馬鹿馬鹿しく思えてならず、尚香はついつい笑ってしまった。陸遜もつられて笑い。
 
「――――では、お互い様ですね」

 そんな言葉を投げてきた。
 陸遜の恨む相手は自分なのか尚香が追求しようとしたとき、ふいに陸遜は我に返った。

「ところで尚香様、私に何かご用だったのではありませんか?」
「え?あ……忘れてたわ。兄様が陸遜をお呼びだったのよ、すぐに行って!」
「すっかり殿をお待たせしてしまいましたね。火急の用件でなければ良いのですが」
「……なんでこんな時に、そんなことを思い出すのよ、まったく」
「何か言いましたか?」
「別に、何も言ってないわよ」
 
 尚香の本音としてはもっと陸遜を問い詰めたかったのだが、本来の用件の方が大事だ。
 絶好の機会を逃してしまった不満も籠めて、素早く立ち上がった陸遜を軽く睨みつけてやった。 
 このままでは上手く話を逸らされたような気がする。上手く告白させられた気がする。上手く逃げられた気がする。
 何故そこで余計な事を思い出してしまうのかと思うと、八つ当たりでも腹が立つ。



 尚香はもやもやとした気持ちのままで陸遜の背中を見送っていたが、ふと思いついて、大きな声で陸遜を呼び止めた。
 
「陸遜!!」

 足を止めて振り返った陸遜に、もう一声。

「今年の大つごもりには、一緒に鐘を数えましょう!」
「…………いいですね。それならば私も、清らかな心になれそうです」

 しばし呆気に取られた後、早口にそう言うと陸遜は足早に立ち去った。ちらりと見えた横顔は少し赤かったかもしれない。
 よくよく考えてみれば、彼が自分の前から逃げ出すなどと言うのは、珍しいどころか初めてのことだ。
 そうとは意識しない言動で相手を翻弄しているのは、もしかして自分の方なのだろうか。
 陸遜と知り合ってはや数年、尚香は初めてその可能性に思い至ったのだった。



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 苑田那智さまの素敵サイト『月下楼』から頂戴いたしました。
 この2005年と翌2006年のものを当方で同時にアップさせていただく際、あわせて再読させていただいたのですが……双方の言い分を聞くと、線が平面になったような、ある種の快感を覚えます。2007年の展開がどきどきです。


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